母の日に寄せて
2011-05-08


母の日に寄せて
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妻の亡き母が、産まれたばかりの妻を抱いている写真[LINK]がありました。妻の大学時代の男子同級生は、この写真を見て感涙したとも伝えられています。
 
ある時、妻は、亡き両親を誇りに思っていることや、亡き母親を美しいと感じて敬愛していると、正直な文章に綴りました。すると、それまで毎日のようにメールを送ってくれていた心優しい女性が、急に気色ばみ、態度が豹変したそうです。「自分は両親が大嫌い」に始まり、こんなことを言われた……と愚痴の連続。「あんな親に育てられた私が優しい人間に育つわけがない」「お金持ちの家の子に生まれたかった」「親から、あなたは橋の下で拾った子と言われたけど嘘だった。違う家の子だったら良かったのに」「自分の顔も名前も嫌い」との話も……妻は、彼女の告白を読んで、嘆き悲しみ心底落胆したといいます。
 
何ごとにも光があれば必ず影がある。誰かが幸福を語れば、誰かの不幸を浮かび上がらせる。もう若くない私は、何ごとをも手放しで書いてはならないのではないか。それが、憂いを知るということではないか。若い頃ならいざしらず、いかに誇りや自慢の存在を携えていようとも、それを、ここぞとばかりにひけらかすのではなしに、薄氷を踏むように、慎重に、ためらいがちに伝えなければならないのではないかと……この考えを実行するかどうかはともかく、彼女の叫びから感じたことだけは、常に念頭に入れておかなければ、と妻は言っておりました。
 
妻の亡き母は、美人聡明で、歌、字、料理、手芸を得意とし、日本家屋の中にそぐわないシャンデリアがまばゆいばかりに光っているようだったと、妻は形容していました。特に達筆であった事実については、次の色紙にさらりと書かれている賛美歌510番「まぼろしの影を追いて」の歌詞からも明らかでしょう。
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三笠宮様へのお手紙を、巻紙に書かされたとも聞かされています。
 
妻にすれば、こんなにも美しく、優しく完璧な母親をもったことは、誰より幸福なことであると同時に、時に不幸でもあったのではないでしょうか。なぜなら、自分の母親と比べた時、周りの女性陣が、いやはやどうしようもなく見えてしまうに違いないからです。
 
私は妻に、これからも、堂々と自分の母親を自慢し、誇りに思い尊敬してもらいたいと思います。素晴らしい実母の存在は、時に妻の不幸でもあったのではとの見解を先に述べましたが、贅沢な悩みと訂正します。世の男性陣は、おしなべて、美人で頭脳明晰かつ家庭的な女性が大好きですから、このような義母を持てた私は大変幸せです。
そして、このような実母から、古き佳き時代の情操教育を受け、愛され、育てられてきた妻は、世界一幸せな娘ではないかと思っています。
 
今日は母の日。お母さんへの賛辞を惜しみなく贈ってください。
[ちょっと一息]

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